信長の安土城へ行こう!古城探検第27弾・第3回
さて今回第3回は
城郭下を通って城域に入りたいと思います。
圧巻の大きさ、太い道です。
この道が上の方まで続いています。
麓の売店で見学料を払い、上に登っていきます。
拝観料500円、子供100円です。
大手道とよばれる正面道を登っていきます。
左側が
”豊臣秀吉館跡”であり、
右手が前田利家館跡とあります。
ただ、この有名な2人以外にも重要な武将は多々あり、
これが伝承の域をでないことから、
他の武将の館だった可能性が高いのではないかと推察します。
武将の似顔絵がありますね。
このような多岩がゴロゴロしており、如何に雄大な
”石の城”
だったかがよくわかります。
現在石垣がない部分でもこのような曲輪が多数存在しており、その規模が計り知れません。
巾は大変広いものの、この勾配が続くので息がきれます。
どのような形状だったのか。ということを解説する石碑もあります。
上から下を見ています。
傾斜が強いですが、脇には平地があります。
このまわりがすべてなんらかの構築物があったということです。
参城者は
この光景を眺めつつ城に登ったのだと思います。
岩に何らかの穴が開いていました。
何のための穴でしょうか?
いまからでは推察することしか出来ません。
たまには休憩。
ここから傾斜がゆるやかになり、森に入っていきます。
当時の武将の気持ちを思いながらここを登ります。
二の丸下の虎口です。
緑と白のコントラストが大変美しいです。
たまには滑ることもあります。
信長の廟跡。先方の石垣はおそらく後から作ったものです。
もみじは秋が有名ですが、夏もみじも太陽の光を適度に通すので大変美しいです。
樹齢数百年を超えると思われる大木。
かの小谷城を彷彿とさせる、千畳敷です。
驚くことにまわりをグルっと石垣が囲み、
当時は圧巻だったと思います。
石垣の上に巨大な建造物があり、見るもの、歩くものを圧倒していたと思います。
つまり、巨大な道路は参列者に対して
”信長の威光”
を示すためのものであり、
”敵から責められることを想定していない”
ということがわかります。
つまり
あの巨大な山岳要塞の観音寺城のように
”守る城”
ではなく、
”見せる城”
だったと推察できるのです。
戦わずして勝つこと
こそ上善である
というのが孫子の兵法ですが、
この城を見れば敵は自ずと戦意が喪失してしまう。
そのような城を築き上げたのだと、そう思います。
信長は美濃攻略で大変な目にあいました。
それから”
明智光秀”と出会い、将軍足利義昭を担ぐことで
<font size="4"
>僅かな日にちで機内を平定しました。
この時
だれよりも
”戦わずして勝つ”
ことの重要性を理解していたのではないかと思うのです。
後に戦わずして勝つ。
ことを
三法師を担いだ秀吉が実践していることもまた興味深いです。
故にこの安土城は、
観音寺城のような急勾配の山岳要塞ではなく、
麓の見晴らしのよい場所に築かれているのではないかと思えるのです。
右側の大山が観音寺城
左側の小さい丘が安土城。
そんな想いにふけりながら千畳敷にて休憩。
小谷城の武者溜まりのような機能ではなく、
もっと魅せるなにかがあったのではないかと思います。
千畳敷を取り囲む、巨大な岩の壁。
高さ3mはあろうかという巨大な岩壁。
この直上が安土城本丸です。
千畳敷から本丸へ向かう道。
光が指しています。
ここはまわりをグルっと石垣が囲んでいます。
これは地下一階、地上六階の地下部分にあたります。
7階の木造構造物をこんな山の頂上に立ててしまう。
財力と権力の象徴ですね。
束石がたくさん並んでいます。
遠く琵琶湖、その向の山々が見えます。
前方の田畑はすべて海だったということです。
大津、坂本方面をみています。
湖の反対側、坂本は明智光秀の居城です。
これは
”光秀さんもプレッシャー感じるわ。”
そうおもいました。
この安土は
長浜の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)
坂本の明智光秀
を監視できる場所にあり、
北陸方面の柴田勝家の連絡道、北国街道を目視できるこの地は
戦略上、組織運営上の拠点として優れていたのだと思います。
安土は下地図の近江八幡の近くにあります。
彦根方面を望んでいます。
デカい山は佐和山でしょうか。
ひたすら、絶景と心地よい風を楽しみました。
本能寺の変は秀吉の高松城攻め、6月21日ちょうど梅雨時に起こりました。
ここで一句
安土山
天へと続く岩の道
つゆ(梅雨)と消え行く
夢の登楼
第4回に続く