「【後半】そうだ飛騨金山に行こう。気温2度で行く、真冬のサイクリングライド」
さてみなさまこんにちは。
まぶちですよ。
飛騨白川へ、鳥焼き定食を食べにいき、
白川人に悪い人はいない。
変な人はいるけど。
の名言を残し素晴らしいお店をあとにしました。
(白川の人に謝れバカッツ❢❢)
その後は、裏道をとって飛騨金山へ。
白川町も、白川郷白川村と区別するため、美濃白川とよばれたりします。
美濃から飛騨へ。
飛騨金山という町
飛騨金山は我々武儀・上之保民からすると少し、いやかなり都会という感じがあるんです。
いや、都会なわけあるか!!
と、もはや金山町民にすら、言われそうなんですが、
もともと我々、武儀、上之保、神渕、小那比、鳥谷市あたりの狭い谷の民族は、
もともとが狭隘な土地にある斜面みたいなところに居を構えています。
で、昔は日当たりが良いのが田んぼ、悪いのが家みたいな感じで、どこか狭い上に狭い感覚が、圧迫感みたいなものが多分にしてあったように思います。
一方で、飛騨金山は飛騨の玄関口といわれるだけあり、
狭い土地ではあるものの、密集した町を形成しています。
土地的にはそれほど広くはないのですが、飛騨街道を中心に大きな町を形成しています。
狭隘な土地に、家が点在していた我々の集落民にとって金山は、大変大きい町にみえたため、
なぜあれだけの町が、
下呂と合併し下呂市金山となったのか、が疑問だったんです。
なぜ、あの金山が合併したのか。
合併先の下呂というのは、ご存知のとおり、日本三大名泉であり、
御嶽山の巨大な地熱エネルギーを温泉として活用しています。
下呂市は、南飛騨にあたり、川に沿って大きな町を形成しています。
地図を見て、実際にチャリで走るとわかるんですが、
小坂→萩原(+馬瀬も)→下呂
この3つはセットなんですよ。
同じ地方色が濃いんですが、
一方で金山は独自の経済圏と文化をもっていると、そう想っていたんです。
武儀といえば武儀だし、加茂といえば加茂なんです。
なぜ金山が合併したのか、金山の文化的特徴
私は金山とか、
白川とか好きなんで、
地元民を捕まえては、いろいろ聴き倒すんですが、
あるとき、関の信用金庫のおえらいさんが、金山出身ということで、
なぜ金山が合併したのか。
ということを聴き倒したことがあります。
金山について驚くべき知見を教えて頂きました。
金山というのはもともと一つではなく、
武儀、加茂、飛騨、郡上という4つのエリアでわかれ、
それぞれが統治していた。ということです。
つまりもともとが連合体であったということです。
昭和の時代になっても実は、その名残がのこっており、
飛騨川を挟んで小学生同士が石をなげあっていた。
ということだったんです。
基本的にとにかく仲が悪いんだ(笑)。
というように言われてましたが、
川を隔てた地域性みたいなものが顕著に残っているのかもしれません。
で、尾張藩以外は、どれも極貧だったと思われ、
国境紛争が行われていたこともあります。
尾張藩は久田見でも、国境紛争を他の貧乏村と起こしていたので、
ジャイアン的な存在だった可能性が否定できません。
もし、金山が一つの町であり、
地域の歴史からなる文化的素養が、心理的一体感が、もしある、
あるいはあったのであれば、この町はおそらく
“美濃市”のように独立の道を歩んでいたはずだ。
私はそう想っているんです。
そういうと、その方もうれしそうに笑っていました。
さて、金山とは由来そういう町であり、一体感というのはないんです。
そしておそらくそれは、
町へのアイデンティティや、心理的愛着の多寡にも関わっているのではないか。
そう思いました。
なぜ、そんなことが言えるのか。
岐阜県民だからこそ、金山民の気持ちがわかるという話。
私は岐阜県出身なんですが、大学は長崎の佐世保にありました。
そこでは、出身を聞かれ、
当初は元気に
岐阜からきた。
というものの、
遠く離れた岐阜のことなどだれも知らず、
私達が想像してる10倍くらい知らず、
しまいには
名古屋の方からきた。
そう答えていました。
九州地方からは名古屋(トヨタ系)の工場に出稼ぎにいく方が当時とても多く、話がはずんだものです。
またあるいは、大学のときに、
私は現地の言葉を一生懸命話そうとして、変な佐世保弁で話していました。
しかし一方で、同級生の中には関西人もおり、
この関西人は佐世保弁を一切喋りませんでした。
テレビの関西人も、多くは関西弁ですよね。
つまり関西人は
自分たちの地域や言語、歴史への強い愛着と、
自分たちの言語へのアイデンティティがあると思うんです。
しかし、一方で我々にはどうやらそれが無いようなのです。
それも、一切。
しかし、それは岐阜を馬鹿にしているわけでは全くありません。
だって、先の信用金庫のかたも、金山はきっと大好きなはずなんです。
では、なぜそうなったのか。
歴史的深堀りが必要である。
戦国期から江戸期にかけて、岐阜という土地は、
徳川から非常に危険視されていました。
エビデンスはないんですが、状況証拠的なものは多数あります。
深ぼるに、当時の海岸線は今よりももっともっと北であり、
つまり尾張地区は今よりもっと狭かったと考えられます。
だって、蟹江とか、飛島とかいう地名がありますよね。
そのうえで、広大な濃尾平野の中心である美濃(岐阜南部)というのは
非常に危険視されるに値していた。
と考えられないでしょうか。
また、守るにも各地に低山が割拠しており、
さらに川による防御も可能です。
古来より、明智光秀、竹中半兵衛はじめ、多数の優秀な武将を排出している土地柄故に、
関ケ原戦後、
徳川家康によって細かく分割されて統括されてしまいました。
さて、金山も、飛騨川、馬瀬川また菅田川の結節点であり、後背に莫大かつ良質な木材資源をかかえ、
金鉱山もあったことから、分割統治されてしまったと考えられます。
その戦略的価値故に、平成の頃の私のようにアイデンティティの牙を奪われてしまったものと勝手に想像しているのです。
そのうえで、考えると金山という町がとてもおもしろく視えてくるということです。
それが、近代推移にともない、河川運送の価値が喪失してくるにつれ、下呂の玄関口としての拠点という意味合いに変わっていった可能性があります。
下呂まで約20km,狭隘な崖がつらなる峡谷をいかなければならないという土地柄、
徐々に宿場町として機能してきたのではないでしょうか。
金山という町はかようにどこか一体感にかける反面、飛騨の雰囲気と美濃の雰囲気を両方の割合で備えた町になります。
今回は、長くなったので、次回、サイクリングの模様を。