堂洞城へ行こう!古城探検第34弾
さて、何ヶ月かぶりに休みが取れました。
土曜も店休日で休みが取れそうだったのですが、朝少し工場の床補修をモルタルでしたほうが良いかなと思いたち、
床補修。
帰ってきてから
みんなでアピタに行こう!
連れてって!ということになり、
”どんだけ酷使するんじゃい!
中日の岩瀬やないんだから”
というツッコミもありつつ、
ラーメン屋に入ってからアピタに向かうことにしました。
とはいえ、このまぶちもお腹いっぱいになると、
眠くなって
ただでさえ下手くそな
運転ができなくなるという
特技があるじゃないですか。
というワケでアピタで買い物中ずっと駐車場で寝ていたという
さらに
行って帰ってきた姿形が全く同じだったということで
地蔵の名をほしいままにしたわけですが、
帰りの車では
”結局食べて寝ただけじゃねーかよ!”
という強烈なツッコミもいただいてしまったわけで、
連日の登板でボコボコに打たれて帰ってくる
岩瀬の気持ちが少しわかりました。
つぎからはもう少しやさしくなれそうです。
というわけで日曜ですが、
嫁も気を使ってか、
”長浜行こうよ!”
ということになり、近江長浜に向かうことになりました。
朝ATMにて叩き起こされ、
長浜に向かいました。
道中
”滋賀の琵琶湖をレンタサイクルで満喫したい”
だの
”賤ヶ岳の戦いで有名な木之本から長浜に至る街道をレンタサイクルで満喫したい”
だのの妄言で、
”そんなに自転車乗りたいならいいよ、午前中カラフルタウンで帰ってから自転車行ったら”
ということで、
カラフルタウンでさんざん子守をし、帰ってから富加に向かいました。
午後から自転車で富加方面に向かいます。
今回は美濃加茂の堂洞城を探検しに行きたいと思います。
津保川にあるボートでパチリ。
梨割山と加治田城跡が見えます。
広大な田地がひろがり天が広いです。
こういう時はクロスバイクが大活躍。
そろそろウィライドのベビーシートがきつくなってきました。
津保川はゆったりと川を流れています。
休憩を終え、加治田方面に向かいます。
旅の無事を祈願しここを離れます。
津保川を遡上しています。
梨割山の北側を流れ、
加治田城の天然の堀の役目も果たしています。
ちょっと前までここに住んでいましたので、
子供の幼なじみとしばしの再会を果たし、ここを離れます。
道中、井高一号古墳を発見。
冒険隊といえど、この中に入るのは無理です。
アナに入るのはいいのですが、カマドウマがこわいので。
さてここから富加小学校を超え、豊かな田園風景のなか、ペダルを回します。
右前方にある山脈の突端には
あの坂祝、猿喰城(さるばみ城)があります。
正面の山脈とこの猿喰の山脈の間を木曽川が通っているということになります。
この道は車がとおらないので、大変進みやすいです。
詳しい場所はわかりませんが、この辺りに堂洞城があるはずです。
信長公記には”堂洞取出”と記載があるのでより小規模の城だったのかもしれませんね。
後ろをふりかえると梨割山と加治田城跡があります。
加治田城跡の直下に高速道路が走っています。
大通りにでて左折。
蜂屋方面に向かいます。
たまに行く孔府館です。
中蜂屋の交差点が見えました。
ひっそりとたたずむ、堂洞城入り口石碑です。
石碑には北に800mとあります。
写真ではわかりにくいですが、ここからなだらかな坂になっています。
神社があります。
劇的な体質カイゼンにより花粉症が出てきていませんが、
さすがにこの色の杉には近寄りたくありません。
ここを超えてさらに上がっていきます。
一番おくまで来るとT字路になります。
ここを左折してさらに登っていきます。
買ってきたお菓子を食べます。
もちろんニュー餅太郎。
溜池があります。
こうした溜池は田地への用水の用途でしょう。
釣り人がおりました。
でっかい挨拶で魚が逃げるとなんなので、
スルーして上を目指します。
快走路に見えますが、結構勾配がキツイです。
よくわからない道を突き進んでいきます。
なんの案内図もありません。
これもまた冒険の醍醐味というものでしょう。
正面にはゴルフ場があります。
向こうは気持ち良い汗をかきながら優雅にゴルフを楽しんでいます。
こちらは訳のわからない道を突き進んでいます。
このあたりから、急激な坂となり、自転車を押しながら進みます。
急な坂では自転車は鉄のカタマリに過ぎません。
帰ろうとする子供をなだめながら上に登ります。
”お兄ちゃん。こんなところで帰るって行ったらダメやよー!!”
弟から強烈なダメだし。
”お前助手席に乗っ取るだけやろー!!”
コントのようなやりとりにニヤニヤしつつ。
ということで全員歩兵となって山を登ります。
今度は弟の方がぐずります。
ぐずりにかけては定評がありますのでね。
しかしこの道、
日当たりがわるく、コケがスベるのなんのって。
このフェンスまで到達したら、自転車を置いてこの未知なる道に入っていきます。
しっかりとした道が続いています。
尾根道のような場所をひたすら進んでいきます。
下からゴルフ場のたのしそうな声が聞こえてきます。
少々出来過ぎな土橋があり、はるか向こうまで続いています。
歩くこと10分で高台が見えました。
行くと着きました。
堂洞城跡です。
信長公記で、著者太田牛一が大活躍したこの堂洞城攻防戦。
その跡地は今や原型を全くとどめていません。
看板も文字が判別できなくなっています。
木々の間から加治田が見えます。
信長は美濃攻略のための橋頭堡として各務ヶ原伊木山に砦を構え、
うるま城(鵜沼城)、
猿喰城を
次々に落としました。
木曽川以北を美濃、以南を尾張と捉えるならば、このころ既に美濃侵攻が本格化していたことがわかります。
対する美濃の地侍たちは、団結してこれを撃退しようとしています。
猿喰の多治見氏
関の長井氏
加治田の佐藤氏
堂洞の岸氏
です。
特に関、加治田、堂洞の3者が同盟しましたが、
加治田の佐藤忠能が突然裏切り、
猿喰城と加治田城に挟撃される形でこの
堂洞城が孤立しました。
堂洞城では人質である加治田佐藤忠能の娘を眼と鼻のさきにある
長尾丸山で磔(はりつけ)にしたということです。
やがて信長と加治田勢の連合軍がこの小さな堂洞城に押し寄せます。
加治田勢が先手となり堂洞城も落ち、
信長は中美濃侵攻を大いに進めたということです。
これだけ近い距離であれば親戚、一族郎党を巻き込んだ悲しい戦いであったことは間違いありません。
堂洞城落城後信長は
加治田城下で一泊したという話がいまでも伝わっています。
10年も前にこの富加でポルターガイスト現象が起きたことをご存知でしょうか?
これはこのような因縁の深い土地と戦いの歴史から出たものであるという説もあるようです。
はっきりいってあまり眺望がよろしくありません。
ここは眺望を楽しむ場所ではなく、
スルメのようにこの辺りの歴史を噛みしめる場所なのでしょう。
段差があり、
このような歴史があるとあまり晴れやかな気分にはなりません。
自らの領土を守り、最期まで強大な敵信長と対抗し、そして全滅した
岸氏。
あるいは
同盟を破り、存続はかなったものの
娘をはりつけにされ、息子は戦死し、隠居した佐藤忠能
いずれが正しかったのか?
答えはわかりませんが、人としての生きる道を教えてくれるような気がします。
判別できません。
途中でゴルフ場の上を通り過ぎる道があります。
帰りはこのすべり道を通ります。
帰りはもう一件よって、
それから
富加駅によりました。
1時間に1・2本の時刻表。
夕日と鉄道。
公園で遊ぶ子どもたち。
それぞれが命の限り戦ったこの富加の地も今は平和となっています。
第34回古城探検 おわり。