美濃兼山城(金山城)に行こう!・古城探検第26弾
美濃兼山城は現在可児市にあった
旧兼山町のお城です。
今回探していたフォルダが合ったので1年前に登った兼山城をレポートしていきたいと思います。
久しぶりの古城探検ですが、行ったのは一年前です。
夏はヤブが深いのと虫がでるので、山登りなどはできません。
この可児市というのは戦国時代は重要な拠点であったようです。
明智光秀は可児市の明智郷の出身というのが定説になっているようです。
※画像の赤いところが可児市です。
右上にある飛び石のような小さい部分が兼山町です。
可児には他にも土田城、今城、大森城、久々利城など中小豪族の城がたくさんあります。
この可児市において兼山は独立国家の体をなし、最近まで兼山町として存続していました。
面積は2.6k㎡と小さいながらも最近まで兼山町として存在していたということは如何にその町独自の文化というのが根付いているのかがよくわかります。
兼山城は木曽川の南端に位置し、北端に城下町を構え、惣構(町も城の一部として取り込んだ城郭形態)に近いある種独立城塞国家のような形状をしているのが特徴です。
昔は八百津が主要街道だったという話を聞いたことがあります。
八百津市街は実際に町を歩いたこともありますが、
川沿いにびっしりと町家が立ち並び、市域が大変広いです。
金山町に似ている感覚があり、過去に発展していたことは容易に想像できます。
※画面中央に金山城が見えます。北には幅の狭い木曽川があり、
その間に直線上に町が広がっています。
ここがちょうど瓶の口元のように狭くなっており、交通の要衝ということがわかります。
その八百津を抑えることは北から岐阜を、南から飛騨を、西から信濃を
抑えることができる主要拠点で合っただろうということが想像できます。
なんといっても
木曽川の海運
を抑えることができるのがこの重要拠点の役割だったということです。
森氏というのは信長公記でも昔から登場し、森蘭丸に代表されるように信長の寵愛も深かったと思います。
それでこの東美濃の重要拠点を与えられていたのであろうと思います。
仮想的ということで武田氏を恐れること甚だしいものがありましたが、
その窓口がこの兼山、東美濃だったということです。
さて、その東美濃の兼山城ですが、
北端が急激な崖となっており、南側からの攻撃では
町全体が防衛拠点となっているということです。
北、南各一箇所づつの出入口を固く閉じれば
守るに易く、攻めるに堅い
という天然の要害となるわけです。
小学校の丘が兼山城の麓となりますので、ここから車で登っていきます。
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小学校への入り口です。
第二駐車場というところに停めました。
城登りで楽をしたいときは、必ず第一駐車場まで登ることが鉄則です。
第一が手狭で第二、第三と作っていくからです。
そのため今回は、かなりの距離を登る事となってしまいました。
距離にして約400mくらいでしょうか。
実際は車で途中までこれるので良いようなものの、比高約170mもあります。
アスファルトがかなりの距離があります。
ここをずんずん登っていきます。