小里城山城へ行こう!古城探検!第22弾・第1回
さて皆様、楽しいゴールデンウィークをいかがお過ごしでしょうか?
花粉もやっと杉もヒノキも落ち着き、そこそこ快適になってきました。
今回は東濃の小里城(おりじょう)に向かうことにしました。
3人で登るのもいよいよこのゴールデンウィークが最期となります。
今回の山は瑞浪の小里城山になります。
大変荘厳な山ですので、久石先生のお力を借りながら行きたいと思います。
自然への畏怖、賛美、感動、悲しみがつまったこのアシタカせっきです。
最期はあのお城と決めています。(岐阜城ではありません。)
※県道沿いの小里城入り口
この小里城は全国的にも珍しい造りかけの城です。
戦国時代末期この東濃は武田軍と織田軍の前線に位置し、激しい戦闘が繰り広げられていた地域です。
武田側は東美濃の岩村城を落とし、そこに信玄の信頼の厚い秋山信友を置きました。
対する織田軍は、信濃方面軍として織田信忠、滝川一益といった武将を配置、与力に森長可、河尻秀隆といった方面軍を形成していました。
武田軍は信玄が生きている頃はその勢力や影響力は大きかったですが、信玄亡き後はいっとき版図を最大に広げるものの、
それらの枝城はむしろ補給線の伸長をまねき、逆に戦略上重荷になりかねない状況でした。
事実苦労してとった高天神城を武田軍は後詰(援護)できずに失っています。
そうした状況下、この岩村も甲斐府中からの援軍があまり期待できない枝城に成り下がり、孤軍でもって織田軍に対峙せざるを得ないという状況に追い込まれてしまいました。
この高天神城の後詰失敗および岩村城の後詰失敗が一斉に離反を招いた原因となったことは想像に固くありません。
ただ、この後詰失敗については”やらなかった”というよりは”できなかった”と捉えるのが歴史学上正しいと思います。
信長が清須、小牧山、岐阜、そして安土と本城をコロコロと移動させたのに対し、甲府(甲斐府中)から動かなかったのが後に重大な戦略的欠陥を呈す事になります。
甲府から今の松本あたり、もしくは飯田あたりに本城を移しておればまた滅亡も少しは遠のいたかもしれません。
しかしこれは関東の北条からの侵攻という憂いをなくすことによって実現するものです。
武田勝頼が北条との手切れという最悪の外交的失策によって実現性をなくしました。
このあたりはまた後々のお話ということで。
さてこうした中で戦国末期、この小里城は対岩村城ということで織田信長の命により嫡男信忠が改修を行ったというお城なのです。
織田軍にとって美濃の東に拠点を設けられていることは大変気持ち悪かったに違いありません。
当時、信長がこの武田軍を恐れること甚だしかった様子は信長公記にも記載があります。
その武田軍の先鋒がこの東美濃の堅城に篭っていることが戦略上、心理上どれほどの影響を与えていたのか?
ということを推し量る際に、この小里城を見る際にとても重要になってくるのです。
高校の歴史教科書にもある
長篠の戦い。
というのは大変あっさりした記述で、
これでもって織田軍が武田軍を撃退したという記述が有りますが、
いかにも
強大な武田軍に対し、織田軍が奇策、高等戦術(鉄砲3弾ウチ)でもって逆転した、
桶狭間のようなイメージを持ちます。
しかしながら
一節には正しく、そうでない部分もあります。
解説していきましょう。
武田信玄がその生涯をかけて侵略した信濃の国一国ですが、石高約60万国、甲斐一国の25万国、その他上野、駿河などを合わせて最大でも120万国です。
動員兵力約3万6千
対する織田信長は
尾張、美濃、伊勢など肥沃な濃尾平野を抑え、さらに足利将軍の影響力を持って関西地方も抑えています。
合わせて650万国
動員兵力なんと約20万
です。単純な兵力比較で3万6千対20万ということで勝負は見えていたわけです。
年々この差は広がる一方で、武田軍としては乾坤一擲の決戦において之を叩く必要があったわけです。
できるだけ早く。です。
逆に織田軍は持久戦に持ち込んでも十分勝てるわけで、この両者の捉える決戦の戦略的意義によってうまく、
誘い込まれたというのが正しい解釈になります。
従来の認識である戦術ではなく
戦略の勝利ということです。
孫子曰く
善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。
よくたたかうものは、かちやすきにかつものなり。
※たたかいのうまいものは、勝ちやすいものにかつものである。
なにか哲学めいていますが、そうではなく、戦う前に勝っているとそういうことです。
事実信玄の頃は徹底した土下座外交でもって後顧の憂いをなくしています。
上兵は謀を伐つ。
其の次は交を伐つ。
其の次は兵を伐つ。
其の下は城を攻む。
城を攻むるの法は已むを得ざるが為なり。
うまい戦いかたは、敵の謀略を討つ。その次は攻略を討つ。その次は兵を討つ。一番の下策は城を攻めることである。
城を攻めるの方はやむをえざるがためである。
とあります。
城攻めや力攻めといったものは最期にやるべきだとの解釈です。
長篠の戦いの最新の研究によると、織田軍は
あるみ原と呼ばれる狭隘の谷の前面に馬防柵を構え、そこに大量の鉄砲を配置しています。
さらに武田の長篠城攻城軍に対し、再三にわたり挑発の兵を繰り出し、武田軍をその地に引っ張り込もうという作戦を取っています。
決戦を避けるように、遊兵をくりだし、かかると見せかけては引き、引くと見せかけてはかかるを繰り返しています。
とはいえさすがの武田軍も歴戦の将が揃い、長篠城は捨てて信州の山城にこもり自在の兵(ゲリラ戦)でもって織田軍を迎え撃とうという作戦を提案します。
古参の侍大将のほとんどがそれを武田勝頼に提案しています。
しかし、上記の戦略上の観点から決戦こそ大事という武田勝頼の命により、全軍突撃という案が採用されました。
ここにおいてつまりは織田軍が構える臨時の”城”に対し突撃をするという決戦案が採用されてしまったのです。
野戦という名の城攻め
孫氏でいうところの
其の下は城を攻む
の状態になってしまったというわけです。
この後の武田軍の戦果たるや目を覆うばかりで、古参の侍大将
馬場信春
内藤昌豊
山県昌景
土屋昌次
真田昌輝
真田信綱
原美濃守
といった歴戦の将を失うことになってしまったのです。
この、うまく相手方を攻城戦に持ち込むやり方は、(野戦形状から攻城戦形状にもちこむと言った方がわかりやすいです。)
真田家がうまく採用し、上田合戦や大阪城攻城戦などで活躍しています。
武田の話になると長くなるので次回に続きます・・・